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見出し特別供覧「金日成主席と日本」    134.傾 倒  
日)

118.傾 倒

 1990年9月26日、自民党代表団(団長金丸信)と社会党代表団(団長田邊誠)に加わって朝鮮を訪問した自民党所属衆議院議員の石井一氏は待望の金日成主席の接見を受けた。氏は帰国後、図書『近くなった遠くの国』に次のような文を書いている。

突然、妙香へ

 とっさの連絡で当惑を隠し切れない団員を「さあ夕飯を食べろ、さあ出かけるぞ」とせかしながら、一泊旅行の身仕度をして百花園迎賓館をあとにしました。この妙香山の地は、金剛山、白頭山と並ぶ3大名勝の地としてみんなが訪れる保養地でした。

金日成主席との会談
 翌朝、前夜があんなに遅かったのにみんな早くから目が覚めて、朝食をとる者、朝の散歩に出る者、まだ日程がわからないまま所在なげです。外に出ると、まさに山の中。ひんやりとしたすがすがしい空気が身体を包んでくれます。見渡すかぎり緑の木々に囲まれた、いかにも景勝の地にふさわしい景色が前に広がります。朝霧が周囲を包み込み夢の中にいるような気分です。われわれに迎えがきて全員徒歩で主席との会見場に向かいます。
 建物の中に入ると、われわれはやはり大きな風景画の描かれた接見室に案内されました。それから15分程経ったでしょうか、会談を終えた金日成主席が、金丸、田邊両団長と一緒に、われわれの待つ部屋に入ってこられました。一人一人と挨拶の握手です。金丸先生より2つ年上の78歳とか。がっちりした身体に大きなダ
ミ声、私は15年前に訪問して主席に会った経験がありますが、その当時と比べて少しは髪が白くなり、足下がゆっくりになったといった感じですが、本当に元気なお姿には驚きました。20分程度の接見の間、主席は日本が経済大国に成長してきた過程を堂々とほめ上げ、朝日間の新しい関係改善がいかに大切かを強く訴えられました。金丸先生はトップ会談でどうやら富士山丸船員の釈放について何らかの確証を得られた様子で、いかにも感極まったという面持ちです。金丸先生は「世界の平和やアジアの安定、日本のあらゆる面の安定のためによい仕事にかかわれたことを政治家のはしくれとして非常に光栄に思う。この大きな問題で歴史の1ページを作ることに対しては、晩年の私だけでなく、訪朝団一行も同じような気持ちだろう」と訪朝の成果を意義づけられました。近くで先生の話を聞きながら、間違いなく大きな成果を得ることができたのだなという熱い思いがこみあげてきます。田邊先生も長かった今日までの社会党と朝鮮労働党との関係を振り返り、これまた感慨のこもった挨拶をされました。

心のこもったもてなし
 午餐会金日成主席との接見のあとはお決まりの記念撮影です。最初に自民党、そして社会党、それから自社合同で記念撮影、最後は記者団と続きます。ちゃんとそのための舞台が段々状に用意された撮影所での撮影でした。それが終わるとすぐに渡り廊下を案内されて丸いドームのような大食堂に入りました。一つのテーブルは十数人かけられる大きなもので午餐会が始まりました。われわれは、記者団の36人を除いて53人全員が顔を揃えています。宴会は最初から和やかな雰囲気で進められました。とくに主席自身が実に素晴らしいホストぶりを発揮し、客人を決して飽きさせないように、次から次へと話題を広げられるのです。血色もよく、あの元気なダミ声を聞いているかぎりとても78歳には思えません。
 食事中の会話の中でもユーモアたっぷりに、たとえば側に座っている山村新治郎副団長には、「あなたは昔、人質としてわが国にお出でになりましたね。今回はわれわれの客人です。大いに飲んで下さい。乾杯しましょう」と酒を勧めます。日本の古い友人の名前も次々に出てきます。宇都宮徳馬、久野忠治、そして田村元といった先輩たちの近況をなつかしげに尋ねられます。「どうかよろしくお伝え下さい」という言葉に深い信頼と友情を感じるのでした。主席はしきりに人参酒を客に勧め、自分の健康の源はこの人参酒とキムチだと言いました。宴がたけなわになってくると、主席は自分の席を立って、一つ一つのテーブルを乾杯しながら回り始めました。それも代表議員団だけではなく、政府関係者、随行団一人一人との乾杯ですから、10テーブルで53人全員との乾杯です。彼らはまさか主席が自分のところに回ってこられるなど思ってもみなかったようで、その感激ぶりは大変なものでした。また、この席に同席している北朝鮮側の人たちが、こんな光景はみたこともないと興奮し、あなたたちはラッキーだラッキーだと騒ぎます。金日成主席の見事に洗練された外交官ぶりに大変盛り上がった午餐会となりました。
 1時過ぎに食事も終わり、土産物の交換もすんで、われわれは平壌に戻る準備をするため宿舎に帰り、3時の汽車の時間まで自由な時間を過ごすことになりました。景勝の風景を楽しむ者、近くにある、国際親善展覧館を見物する者、部屋で一休みする者、それぞれがつかの間の自由時間を楽しんでいました。

金丸ひとり妙香山に残る
 金日成主席との会見、そして午餐会も無事終わり、富士山丸の2人の釈放もどうやら実現できそうで、何となくホッとした安堵感を味わっていたそのときでした。金容淳書記が慌ただしく金丸先生の部屋に飛び込んできました。「主席が、ぜひ金丸先生と2人だけでゆっくり話をしたいと希望しているので、どうか先生だけはこの妙香山にもう一晩残ってほしい」という突然の申し出でした。すぐに私が先生の部屋に呼ばれ相談を受けたのですが、「主席からたっての希望といわれて残らないわけにはいくまい。秘書と護衛だけを残すので、君はみんなと一緒に予定通り汽車で平壌に戻ってくれ。ただ一番気になるのは田邊団長のことだ。同じ団長同士で来ているのに自分だけ残るのというのもいかがなものかな」と。そして、「田邊はどこだ。田邊はどこだ」と、私にせがまれましたが、いかんせん宿舎には田邊先生の姿はなく山中を捜し回る余裕などありません。「私がこの突然の事態を汽車の中で説明して田邊先生と社会党側にご了解をもらうようにしましょう」と答えましたが、先生は自分だけが残って主席と会うことは、橋渡しをした社会党のメンツを潰すことになりはしまいかと心配そうな様子です。そのとき、私が気になりだしたのは記者団のことでした。今朝から金日成主席とのトップ会談が続けて行なわれているのに、記者会見はまったく行なわれていません。帰りの汽車の中でという約束になっていたのに、金丸先生が残るということになるとそれも不可能になる。いまの時間を逃せば明日になってしまう。日本国民が注視する中での重要な金日成会談の報道を1日遅らせるわけにはいくまい。汽車を待つ間の時間しかない。私は金丸先生に、記者たちをここに連れてくるので緊急会見をしてほしいと要請し、車を飛ばして記者団の宿舎である香山ホテルに向かいました。もともと呉越同舟の訪朝団です。最初の申し合わせで記者会見は必ず自社合同という約束がありましたが、この緊急事態ではやむを得ない、と私が独断で決めたのでした。
 香山ホテルのプレスルームには、限られた機材しかなく、記者諸君は日本への原稿送りに忙しそうです。出発の時間まであと1時間しかない。手短かに同行記者団長の『毎日新聞』の井上記者にこの間に起こった事情を説明して、全員いますぐ身仕度を整えて金丸先生のいる宿舎に来てくれるよう頼んだのでした。どんなことが起こったのか、すぐに察知して、記者団はバスに乗り込み私のあとを追いかけてきました。まったく予期せぬ事態の中で緊急の金丸記者会見がはじまりました。朝から始まった主席とのトップ会談、午餐会での言葉のやりとり、それから急に主席からの要望でもう一晩妙香山に残ることになったてん末について説明がありました。このときは、とくに海部総裁からの親書が問題となり、主席はその内容に大いに満足していたということなどが話題でしたが、なにせ時間に限りがあり、詳細な説明はできません。記者諸君も3時には汽車に乗らなければならないのです。実に慌ただしい会見でしたが、私は金丸先生が会見をしたというだけでよい。細かい点はそのトップ会談にともに参加された田邊社会党団長に汽車の中でゆっくり説明してもらおうぐらいに考えて、金丸先生と秘書、護衛官2人ずつ、計5名を残して妙香山駅へ急いだのでした。

帰りの列車は険悪
 残る一行全員は昼食後、妙香山の観光名所や国際親善展覧館の見学を終えて、妙香山駅には午後3時ぎりぎりに到着しました。私も金丸先生と別れて列車に1人飛び乗り、列車は定刻に妙香山をあとにしました。汽車が発車するとすぐに田邊先生の乗っている個室に飛び込み、この間の事情を説明し、了解を求めようとしました。「田邊先生、この汽車に金丸は乗っておりません」。はじめは田邊先生も事情が呑み込めず、何か金丸先生が体調を崩したのではないかと勘違いでもされたような印象でしたが、私のくわしい説明でようやく事情がわかった先生はやはり愉快ではなさそうで、私は必死に金丸は田邊先生を差し置いて1人残ることを気にしていた、何分緊急な突発事態だけにどうかお許しいただきたい、先生は主席とは長い古い友人関係だが、金九は初めてお会いしたばかり、そんな事情で主席からたっての要請をお受けした次第です、と懇願しました。
 田邊先生から、一応の了解は得たもののおそらく内心は穏やかではなかったことだろうと思います。ほかの社会党団員の空気も厳しく、あとでわかったことですが、そのとき、社会党団には金丸団長が妙香山で緊急記者会見をやったことが誤って伝えられ、私自身が勝手に社会党との申し合わせを破って抜けがけ的に記者会見をしたと誤解していた節がありました。社会党の人たちの怒りは激しく、とくに広告担当の田並代議士は、口もきいてくれません。とにかく事情がわからずキョトンとしている久保、山花といった人たちに説明して田邊先生のとりなしを頼みました。
 記者団から詳しいブリーフを田邊先生にしてほしいと要請がありますが、田邊先生からはなかなかOK がでません。彼らは、記者会見のあと平壌に汽車が着くまでに原稿をまとめ終えたいという事情があり、早く早くとせがんできます。汽車は走り、時間はドンドン過ぎていきます。空気は険悪、気ばかりが焦ります。かれこれ1時間ぐらい過ぎた頃でしょうか、記者団からの強い要請に田邊団長はようやく会見に応じてくれました。何となくギクシャクした空気の中での会見でしたが、立場上私も立ち合わないわけにはいきません。金丸先生のアバウトな会見と比べて田邊先生はきちんとメモにそって説明をされます。私自身も主席との会談に同席したわけではなかっただけに、田邊会見を脇から聞いて、はじめて全貌がわかってきたのでした。
 記者団もようやく全体の流れが読み取れて金日成会談の記事ができ上がったようでした。この国がいつもやる手、突然の日程通告には先遣団のときから悩まされてきましたが、この大事件には本当に振り回されました。

なごやかな自民党
 田邊先生の記者会見が終わるときになって、私は大事なことを忘れているのに気づきました。それは、金丸先生がひとり残ったことを自民党のみんなに知らせていないことです。秘書をせきたて、ぐっすり眠っている人たちを無理に起こして全員サロン車に集まってもらい、ことの経過を説明しました。「金丸団長はこの汽車に乗っておりません」。 しかしわが自民党の連中はおおらかなものです。「わかった、わかった。先生がゆっくり金日成主席と時間をかけて語り合うことは両国のために大変良いことだ」「先方の希望なら仕方ないだろう」「しかし、ピンさん(筆者のこと)、君も残って側にいた方が何かと安心だったのに…… 」「僕が残ってしまったらこの汽車には誰も事情のわかる者がいないではないか」「金丸と石井がいない、と大騒ぎになるぞ」。大笑いの中で報告は終わったのですが、最後に誰かが不謹慎なジョークを飛ばします。「団長は拉致されたんではなかろうな」。ドキッとする冗談でしたが、仲間の暖かい気遣いの中で特別列車は昨日出発した同じ駅に間もなく滑り込んだのでした。

金・金会談
 金丸信・金日成会談で何が話し合われたのか。あとで何かと論議の焦点になった点ですが、私も陪席しておらず、詳しいことはわかりません。金丸先生自身が報告や説明を積極的にする人でない以上、すべては先生の胸のうちということになるわけですが、その後、別の機会に先生の口からポツリポツリと出てきた言葉をつなぎ合わせていくとおおむね次のようなことになるようです。私たちが慌ただしく記者会見をすませて立ち去ってしまったあと、夕方の4時頃に金日成主席の方から金丸先生の休んでいる宿舎に足を運ばれ、2人だけの懇談の時間が持たれました。主席が客人の部屋を訪ねることは異例のことだそうです。翌朝は3回目の会談がおよそ2時間あり、さらに昼食を一緒に食べながらの時間も合わせますと5時間近くにも及ぶ長い会談でした。何か相手の術中にはまってしまったかのような批判がありますが、先生によると話の中身はお互いが外交交渉をするために議論を交わしたわけではないのです。談論風発というか、老成した政治家が立場を超えて、お互いの歩んできた道をなつかしみ、現在の苦労話に花を咲かせ、世界がどう動いていくのかなど、自由で親密な雰囲気の中で語り明かすといったもので、特別に2人の中で約束事をすることなどはなかったということです。金主席からは独立して自分なりの国家を作ってきた苦労話が述べられ、海部総裁の親書を高く評価し、労働党創立45年の記念式典にはぜひ自民党の代表も来てほしい、という招待がありました。
 金丸先生は日本がかつて朝鮮半島にしてきた不幸な過去に対して率直に申し訳なかったと詫び、できるかぎり償いたいという誠意をしっかり伝えられました。そして、金丸先生が韓国に出かけたとき、戦前の日本軍隊の仕業をろう人形で表現している独立記念館に案内された体験談を出して、これからの新しい日朝関係を築くためにも、あの痛ましい姿はどうか北ではみせないでほしい、といった思い出話も出たそうです。また、北朝鮮の核査察にも言及するなど、きちんと「言うべきことは言う」姿勢を貫かれたのでした。主席は、意外にも
戦後日本が歩いてきた道は正しかったと高く評価して、アジアのことはアジア人で解決していこう、と語られたのでした。つまり、この金・金会談は実務者が交渉事でかけ合うような雰囲気、内容ではなかったのです。
金主席と金丸先生の談話は、アジア、ヨーロッパの最近の情勢、アメリカの動向、韓国の実情や南北朝鮮問題など多岐にわたった話し合いだったようです。そして金丸先生は最後の最後に富士山丸の船長、機関長の釈放をさりげなく重ねて要請され、主席からは誠意ある「いま、当局が釈放の方向で検討していますのでよい結果が出るでしょう。法律は人間が作るものですから」という返事があって、その最後の言葉で、先生自身が2人の釈放の確証を得られたようでした。
 帰国後、この金・金会談に日本側から一人も通訳を連れず会うのは外交のイロハを知らない者のする過ちだという批判が起こりましたが、これなど現場を知らない無責任ないいがかりそのものです。2人の巨頭は何かを取り決める役目をおびて会談をしたのではありません。外交案件の処理を果たす立場でもありません。それ
らは、はじめから政府間交渉に委ねることに合意した上での話し合いです。実務者の前例に縛られた発想、周囲への気遣いばかりを考える頭では10年経っても重い扉は開かないでしょう。政治家同士が腹を割った話し合いの中から強い信頼でお互いに結ばれることこそ、金丸訪朝の本当の目的ではなかったのでしようか。

 以上の文は、朝鮮を訪問した日本人たちにある意味で共通している微妙な心理がリアルに表現されている。言い換えればそこには金日成主席への恋情≠ニも言えるほどの傾倒ぶりが軽妙な筆致で言い現されているのである。朝日の親善を心から願う主席の真情は、今日も朝鮮人民の心の中に連綿としてうけつがれている。