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見出 特別供覧「金日成主席と日本」138.近い国にならなくてはならない 140.故高木健夫氏の遺族に同道して  
日)

9138.近い国にならなくてはならない

 1991年4月19日、金日成主席は『毎日新聞』編集局長森浩一氏の質問に次のように回答した。
 「毎日新聞社代表団のわが国訪問を歓迎します。あなたの質問に対し、便宜上、概括してお答えすることにします。まず、朝日国交正常化の問題について述べましょう。朝鮮と日本はともにアジアに位置しており、地理的に隣同士です。両国は隣邦なのですから、当然、近い国にならなくてはならないはずですが、これまでは近くて遠い国となっていました。これは、不正常なことであると言わざるをえません。朝日両国間の誤った過去の清算と関係の正常化は、第2次世界大戦の終結後ただちに解決すべき問題でした。しかし遺憾なことに、日本の政権当局者は過去を反省し、正しい道を歩もうとする日本人民の意思に反して、わが共和国に対する非友好的な政策を実施してきました。自主化の時代的潮流に逆行する不当な政治は長続きするものではなく、歴史は発展するものです。日本で朝日関係の正常化を要請する広範な人民の声がいっそう高まるなかで、先見の明ある政治家がそれを実現する正義の事業に決断を下してのりだすことによって、両国間の関係改善に新たな局面が開かれるようになりました。われわれは日本の対朝鮮政策に生じた前向きの変化を評価し、両国間の関係正常化の問題に積極的に対応することにしました。………
 朝日国交正常化は、現時代の要請に即応して平等と互恵の原則に基づき両国間に友好関係の新しい歴史を開く事業です。昨年、朝鮮労働党と日本の自由民主党、日本社会党が協議して発表した共同宣言には、朝日関係を改善しようという両国人民の共通の志向と、その実現のための諸原則が反映されています。朝日関係改善の展望は、両国の政府がどのような立場に立ってどう努力するかにかかっています。両国の政府は当然、自主的立場に確固と立ち、両国人民の共通の志向と要求に即応して問題を解決していくべきであり、朝日関係の問題がある外部勢力の干渉や影響によって左右されるようなことがないようにしなければなりません。………
 朝鮮の統一問題は朝鮮民族の内部問題であると同時に、国際関係と深いかかわりのある問題です。わが国が分断された経緯といまだに統一が実現していない原因をつきつめてみれば、それは主として外部勢力と関係しています。そもそも日本が朝鮮を不法占拠して植民地支配をしなかったなら、分断だの統一だのといった問題自体が生じなかったはずであり、第2次世界大戦後、列強が朝鮮問題を東西間の対立関係に基づいて処理しなかったなら、わが国は分断されなかったはずです。朝鮮が分断されて半世紀近くになるまで統一が実現されていないのは、なによりもアメリカが南朝鮮を占領しつづけ、統一を妨げてきたためです。
 朝鮮の統一問題を解決するのは、民族的悲願を実現するための朝鮮人民の死活の要求であるばかりでなく、アジアの平和と安全を保障するうえでも重要な意義をもちます。祖国統一問題の解決におけるわれわれの一貫した立場は、自主、平和統一、民族大団結の3大原則に基づいて一つの民族、一つの国家、二つの体制、二つの政府に基づく連邦制の方式で組国の統一を実現しようということです。わが国の北と南に異なる思想と体制が現存している状況のもとで、誰が食うか食われるかというのではなく、統一問題を平和的に解決できる方途は、連邦制の方式で統一する道しかないと思います。連邦制の方式で統一を実現すれば、わが国は他の国の衛星国にならず、中立的で非同盟的な国に発展することを予見しているのですから、朝鮮の統一は誰かの利害関係に抵触したり脅威となることはないでしょう。われわれは国の統一問題を解決するため北南間の対話を引き続き発展させ、統一の障害を克服するため忍耐強く努力するでしょう。朝鮮問題に責任のあるアメリカをはじめ関係諸国は、わが国の統一が一日も早く実現するよう積極的に協力すべきです。変化した今日の現実は、アメリカの対朝鮮政策が時代後れであり、アメリカ人民の利益にも合致しないということをいっそう明らかに示しています。アメリカはわが共和国をあたまから敵視する古い観念から脱して、時代錯誤的な対朝鮮政策を放棄し、朝鮮の統一問題解決においてその責任を果たすべきです。このようにすれば、朝米関係の改善にも明るい展望が開かれるでしょう。われわれは、国際関係で平和と正義を守る使命をになっている国連が、朝鮮の統一問題に深い関心を払い、朝鮮問題の解決に相応の寄与をすることを期待しています。……
 終わりに、アジアの平和と安全問題について述べましょう。かつて帝国主義者の侵略と略奪の対象となってきたアジアは、今日新たな発展段階に入っています。アジアは当然、アジア人のアジアになるべきであり、新しいアジアの建設においてアジア諸国の人民は主人としての責任と役割を果たさなければなりません。アジア諸国の人民はアジア問題の解決にあたって帝国主義者の専横と干渉をこれ以上許してはならず、自主的立場を堅持しなければなりません。アジア諸国の人民は自主、繁栄の新しいアジアを建設するために思想と体制、信教の違いを超越して互いに緊密に協力すべきです。アジアの平和と安全を保障するためには、アジア地域の侵略的軍事基地を撤廃し、外国軍隊を撤退させるべきであり、侵略と戦争に反対して積極的にたたかわなければなりません。現在、南朝鮮にはアメリカ軍が駐留しているだけでなく、数多くの核兵器が配備されており、これは朝鮮半島とアジアの平和と安全にとって重大な脅威となっています。アメリカが南朝鮮をもっとも危険な核基地に変えてわれわれを脅かしながら、誰それに対する核査察について云々するのは道理に合わない不当な行為です。………
 わたしは、『毎日新聞』が今後、朝日関係を発展させるうえで肯定的な役割を果たすよう希望し、あなたがたの活動に成果があることを願うものです」。


140.故高木健夫氏の遺族に同道して

 1991年5月13日、故高木健夫氏の遺族に同道して、金日成主席の前に立った佃有氏にとっては、それが主席との20年ぶりの再会であったが、主席はたいそう喜び、「やあ、覚えています。また会えて嬉しく思います。
あなたは私の旧友です。熱烈に歓迎します」と言って、両手で、氏の手を握り締めた。こうして氏は、高木有為氏、古川旗江さんとともに主席と歓談し、食事にも招かれた。食事は和気藹々とした雰囲気の中で進められ、主席は抗日武装闘争当時の逸話から日本映画『男はつらいよ』にまで話題を広げ、私事に関する質問にも気さくに答えた。
 同じアジア人として、寅さんの気持ちを理解し、24巻全部を見るほどのファンになってしまった素顔の金日成主席。氏は主席の話を聞いて感心し、その日の夕刻に予定していた参観を取り止めた。いっときも早く主席の人柄を日本の読者に伝えたかったのである。原稿は硬軟の二通り書くことにした。
 そんなところに案内を担当した人がやってきて、「どんな原稿になりますか」と聞いた。氏は、先に出来上がった軟らかい方の原稿を見せた。「これを送るんですか」と言う。こんなニュースバリューのない瑣末なことを記事にするのかと言いたげな表情である。氏は、「いや」と言った。「寅さんの映画にせよ、主席の身辺のことにせよ、あなたにはつまらない事と思えるかもしれませんが、日本人読者は、主席のこうした一面を知ることによって、朝鮮の指導者としての主席を、同じアジア人の心を持つ人間らしい人間として親近感を持って見るようになるのです。これは大切なことです」。朝鮮の実情にうとい多くの日本人にとって、金日成主席のそうした身辺雑話の紹介は、政治に関するニュースと同等に大事だと氏は確信していたのである。
 帰国した氏は、社内外の人たちから声をかけられた。「寅さんシリーズの記事、面白かった」「主席は日本映画をフィルムで見るのかね、それともビデオかね」「渥美清や山田洋次監督は、苦笑いして新聞を見たろうね」。記事は日本人読者を喜ばせたのである。
 佃氏が主席に最初に会ったのは、1971年12月31日の夜だった。毎年、主席は大晦日に子どもたちの迎春公演を見る。この年の迎春公演は、平壌市の中心街にある平壌学生少年宮殿で行われた。当時は首相の肩書きだった。宮殿の玄関に首相が到着すると、子どもたちが歓声をあげて取り囲んだ。子どもたちは我勝ちに首相の手をとって玄関に入っていった。公演が始まる前に、高木健夫氏と佃有氏は休憩室で主席に紹介された。
 主席は両氏に、「朝鮮人民を代表して、日本人民の代表であるあなたがたに新年の挨拶を送ります」と言い、高木氏は「世界の元首の中で、新年を子どもたちと一緒に迎えるのは首相閣下だけです」と答えた。
 主席は大きな声で「カムサハムニダ(有難うございます)」と礼を言った。主席は、子どもたちと一緒に過ごすと、第一に子どもたちが喜んでくれる、また一つには、子どもたちの中にいると、わたしたちがみな若返る、と言って顔をほころばせた。そして、初対面で緊張している両氏にお茶やタバコを勧め、「正月を祝って日本の新聞記者と一緒に過ごすのは、わたしも初めてです」と楽しそうに言った。
 そして、東京から平壌まで何日かかったかと尋ね、12月12日に羽田を発ってまず香港へ行き、翌日、深?をへて広州へ、さらに上海、北京と大回りして、6日目に平壌空港に着いたという説明を聞いて、日本と朝鮮の距離は非常に近い、飛行機なら2時間しかかからないのにと言った。ついで、日本の新聞に「近くて遠い国」と書かれているのを見たが、本当は近い、両国人民の心も非常に近い、1972年には互いに力を合わせて両国が近い関係になるよう友好親善を築きましょう、新年を迎えるに当たって、そう決心しようではありませんか、と言った。
 当時の朝日関係はまさに「冬の時代」だった。日本人記者の朝鮮訪問はほとんど不可能であり、まれに来る記者たちは未知の国への記者的好奇心に駆られ、大きな緊張感をもってやってきたものだった。両氏の訪朝が決まって、総聯の韓徳銖議長に挨拶した時、議長は非常に喜びながらも、「あなたがたはいいですね、共和国に行けるんですから。わたしたちは祖国であるのに行けないんですよ」と不満を漏らした。それから10日後の1972年1月10日、両氏は3時間45分にわたって主席と会見した。
 最後に主席は、「わたし個人のことは書かないでください」と言ったが、佃氏はそれから20年後の会見記事に主席の日常生活の一端を紹介したのである。氏はそれを、日朝友好をはかるうえでも有益なことだったと述懐している。金日成主席のはからいで故高木健夫氏に朝鮮民主主義人民共和国親善勲章第1級が授与され、長男の有為氏が日本へ持ち帰った。