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見出し特別供覧「金日成主席と日本」    147.主席が最後に会った外国人  
日)

147.主席が最後に会った外国人

 1994年6月19日、金日成主席は三木武夫元首相の未亡人三木睦子女史とその孫たちに会った。女史は2年前の92年9月7日にも主席の接見を受けている。女史は東京府立第一高等学校に学び、1940年、三木武夫氏と結婚した。68年全国発明婦人協会会長、アジア婦人友好会会長、75年国連婦人協会会長、91年「アジアの平和と女性の役割に関するセミナー」日本側実行委員会代表委員を務めた。
 主席逝去後の95年日朝国交正常化促進国民フォーラム代表幹事、95〜2000年「朝鮮の子どもたちにタマゴとバナナを贈る会」代表として活動した。また、2000年〜2012年日朝国交促進国民協会副会長を務め、「北南朝鮮と日本の友展示会」実行委員会代表を兼任した。女史は、2012年7月31日、95歳を一期として生を終えた。
1994年6月19日、主席の接見を受けて帰国した女史は、それから間もない7月9日、金日成主席が亡くなられたという青天の霹靂のような悲報に接した。深い悲しみに沈んだ女史は、「統一と平和は主席の遺言」という文章を総聯の機関紙『朝鮮時報』に寄稿した。その内容は次の通りである。
 ――7月9日、予定していた講演会に参加するため車で明治大学へ向かっていた時に、孫から電話がかかってきた。孫は「今、金日成主席が逝去されたというニュースがありました……」と言うのであった。私はどうしても信じられなかった。孫の言葉がすぐには信じられず、私はすぐ電話を切ってNHK放送のスイッチを入れた。そして、そのニュースに耳を傾けた。ところが、いくら聞いてもニュースは主席が亡くなったという一言だけであった。あのお方がどうして急逝されたのか、知りようがなかった。いたたまらない気持ちを静めていると、某記者から電話がかかってきた。「ニュースをお聞きになりましたか」という声が受話器から聞こえてくる。私は前後を忘れていた。講演会場に向かう車が幾つかのトンネルを抜けたため、受話器から響いてくる記者の声は所々途切れたり聞こえたりした。そうこうするうちに私は講演会場に到着した。公演の途中、金日成主席の逝去と関連したメディアのインタビューに応じるために、私は3回も座をはずさなければならなかった。講演会が終わると、私は大学側が勧めてくれたお茶も飲まずに、弔問のため朝鮮総聯中央会館へ向かった。館内は深い悲しみに包まれていた。
 李珍奎(リジンギュ)第一副議長もまた、記者会見を控えて、悲しみを抑え、しゃんとした姿を見せていた。私が金日成主席に初めてお会いしたのは、1992年に「アジアの平和と女性の役割に関するセミナー」を機に日本代表として朝鮮を訪れた時であった。私はその日、金日成主席に主人を亡くしてもう7年になると申し上げた。すると主席は、この次は孫たちを連れて家族と一緒に遊びにいらっしゃいと、やさしく言ってくださった。そして、金剛(クムガン)山の秋景色はとても美しいとおっしゃり、金剛山のもみじについて具体的に説明してくださった。そのお方の興味津々たるお話に私は胸がわくわくし、金剛山の頂まで登って来ましたと言い、一緒に行った代表たちが感激のあまり滝に飛び込んだ光景についても得々として話した。このようなお招きを受けながらも、その年の秋は仕事に追われ、再訪する時間をつくることができなかった。結局、今年の6月に朝鮮を訪問したので、もみじは見られなかったが、妙香(ミョヒャン)山の美を味わうことができた。
 今回は主席と2時間半も話を交わした。最初20分ほど、孫たちも一緒に儀礼的な会見をし、その次はぐるっとテーブルを囲んで本当に温かい雰囲気の中で食事をした。たまたまアメリカのカーター元大統領と会談をした翌日だったから、場所も同じ場所だったと思われる。会談が思い通りに進んでたいへん喜ばれたのか、私に北南首脳会談もするとおっしゃるのだった。その日主席は、祖父と外祖父をみな亡くした私の孫たちにも、これからは私をおじいさんと思って、毎年遊びに来るんだぞとおっしゃった。孫たちはとても喜んだ。それに対する感謝の念をこめて、孫たちは二人で『金日成将軍の歌』を歌った。その時、主席はにこにこしながら孫たちの歌を楽しそうに聞いておられた。あの時、おそらくご自身のお孫さんたちのことを目の前に描かれておられたのではないかという気もする。主席は日本についてもよく知っておられた。主席はまた、宇都宮徳馬先生は近頃どうお過ごしですかとお尋ねになった。私は主席の質問に、宇都宮徳馬先生は夫人を亡くして家の中に閉じこもっておられるが、『軍縮』という雑誌に毎回巻頭言をお書きになっていると答えた。すると主席は、その雑誌はわたしも読んでいますとおっしゃるのだった。その時私は、主席はあらゆる情報を把握しておられると思った。
 その頃は、北南首脳会談、米朝会談などすべての対話の方向が金日成主席が望まれていた通りに良好に進もうとしていた時であった。今にして思えば、金日成主席はすべての道を開いて急逝されたと思われる。私は実際、金日成主席のお人柄についてもう少し世界の人々に知らせるべきだ、そうしたら朝鮮という国がどんな国であるかを理解させることができると考えていたところだった。私たちは、「アジアの平和と女性の役割に関するセミナー」実行委員会のメンバーとして、なんとしても北南朝鮮の統一に協力し、それと同時に日朝国交正常化を実現させたいと考えている。いくら日本の国内情勢が複雑であっても、隣国であるということに変わりはないのである。「同じアジアの国なのですから仲よくしましょう」。これは金日成主席のお言葉である。アジアの平和へのこの切々たる念願は、主席がわたくしたち日朝両国人民に残された遺言であると思う。金日成主席は、北南朝鮮の統一は、国を建てた後ずっと抱いてきた念願だとおっしゃったことがある。私はその念願の実現を切に望んでいる。
 今にして思えば、主席がいろいろとお話になったうちで何度も話されたことは、つまるところ「平和」への念願だった。決して強い語調ではなかったけれども、主席はこのことについて、なんらの地位も持たない未亡人である私に懇々と話しておられたのである――。