本文へスキップ

アジア・ウオッチ・ネットワークはアジアに幅広い取材アンテナを張ります。

アジア・ウオッチ・ネットワークAsiaWatchNetwork


見出し特別供覧 「金日成主席と日本」  18.明快な論理  
日)

 1970年8月、成田知巳委員長を団長とする日本社会党代表団の朝鮮訪問によって、はじめて日本社会党と朝鮮労働党との、党と党との交流連帯の扉が開かれた。朝鮮労働党代表団と日本社会党代表団との会談で、アジア情勢、日朝関係などの多くのことが話しあわれたが、最も大きな比重をもって話しあわれたのは、日本軍国主義の復活の問題であった。
 当時、日本の内閣は佐藤内閣であった。佐藤総理は、1969年11月の訪米で、ニクソン大統領との間で「日米共同声明」を発表していた。それには、極東の平和と安全のための米軍の役割を高く評価しつつ、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」であり、また「台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとってきわめて重要な要素である」とうたわれていた。これは、朝鮮半島や台湾海峡で戦争がぼっ発した時は、日本はアメリカとともに戦争に参加するという決意を表明したものと受けとられた。
 これについで、1970年6月には、1960年の大反対闘争を押し切って改定された日米安保条約の、10年の固定期限が終了し、廃棄の手続きが取られない限り安保条約は永久に自動延長されることになった。これに見合うごとく、佐藤内閣は「自主防衛」というスローガンのもとに軍事力強化の政策を露骨に推進した。
 こうした経過をふまえて、朝鮮側は日本軍国主義はすでに復活したと主張した。これに対し日本側は、日本支配層には軍国主義復活の意図があり、そのための政策を推進していることは事実であるが、まだ復活したという断定はすべきでない、と主張した。もし復活したと断定すれば、日本の民主勢力の平和民主の闘争のあり方に重要な変更を加えなければならないと判断したうえでの張であった。この論争は時にはエキサイトした場面もあったけれども、結局、「復活しつつある日本軍国主義の危険性に対してたたかう」という表現におちついた。

 このあとの8月22日、代表団は金日成主席の接見を受けた。社会党代表団には、党中央執行委員高沢寅男氏もいた。氏はその時の主席の印象をこう語っている。
 「私にとって主席の第一印象は非常にソフトな人ということだった。かなり背の高い人だけれども、まるまると太った体躯の感
じでそれが中和されている。つねにほほえみをたたえた温顔。そして握手した時のやわらかく温かい手のひらの感じ。すべてがソ
フトであった。だが第2印象はすごい人ということであった。それは、主席の声からの印象である。それは、私がいままでに会ったいかなる人からも聞いたことのない、ドスのきいた太い声であった。主席との会談で判明したことは、成田委員長と主席が同じ年(1912年)の生まれということであった。主席は4月15日生まれ、成田委員長は9月15日生まれだった。このことが成田委員長と金日成主席のあいだに、また日本社会党と朝鮮労働党のあいだに、独特の親近感と友情を生み出したと私は信じている」。
 席上、金日成主席は多くのことを語った。日本政府は朝鮮に対して、かさにかかって国際原子力機関の核査察を受けろと要求していたが、南朝鮮に約1000発のアメリカの核兵器が配備され、それが北朝鮮に向けられているというこの不当な実態について、アメリカに対しても南朝鮮に対しても一度も異議を申し入れたことがない。さらには非核3原則という国是にそむいて、アメリカの核兵器が大手をふって日本へ出入りしていることについて、しかもその核兵器が北朝鮮を含む社会主義諸国に向けられていることについて、まったく口をぬぐって知らぬ顔である。日本政府は、北朝鮮に対して国際原子力機関の核査察を受けろなどという前に、日本に出入りしているアメリカの艦船や航空機の核の有無をみずから査察する責任があるのである。情勢に対する正確な判断力をもっている金日成主席の明快な論理に感銘を受けた高沢寅男氏は、こう続けている。
 「私は日朝の国交を樹立することによって、南北朝鮮の自主的、平和的統一への道を容易にすることができると考えていた。
そしていまや、日朝の国交樹立をめざす政府間の交渉が行われている。今後、いろいろと紆余曲折はあろうが、必ずや日朝国交が樹立されることは間違いないと私は確信している。そのあかつきに、もしあの若々しい金日成主席が日本を訪問されたならば、日朝両国民のあいだの友好関係がどんなに進むであろうか。また、不当な差別のもとにおかれてきた在日朝鮮人にどんなに大きな喜びと自信を与えることだろうか。私はその日のくるのを心から待望するものである」。