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見出し特別供覧 「金日成主席と日本」  25. 高木健夫の転身  
日)

 日朝文化交流協会初代理事長高木健夫氏は、1905年福井県の生まれで、25年北京法文学堂卒業後、国民新聞社、読売新聞社、大阪毎日新聞社などを転々とした末、中国に渡り北京で敗戦を迎えた。46年3度目に読売新聞社に入社して論説員となり、49年〜66年同新聞のコラム「編集手帳」を担当して機知に富んだ風格ある名文によって人気を博した。
 氏は還暦をはるかに過ぎてチュチェ思想に接し、熱烈な信奉者、宣伝者となり、晩年、日朝文化交流協会の結成を主導し、初代理事長を務めた。世界には劇的な人生転換をなした有名人の物語が少なからず伝えられているが、高木健夫氏のように人生のたそがれどきにジャーナリストから政治的信念が確固とした社会活動家に転身し、その信念をもって余生を送った例は稀である。
 元来氏は金日成主席についての話をいろいろと聞き、その著書も読んで、大きく心を動かされてはいたが、すべてをそのまま信じていたわけではなかった。それは、わが目で確かめ、現実として共感を覚えた事実だけを真理として認めることに慣らされた、長年にわたる記者生活の中で身についた習性ともいえるものだった。氏が朝鮮をはじめて訪れたのは1971年12月末であった。『読売新聞』記者代表団団長として訪朝した高木健夫氏は、12月31日夕、金日成主席が毎年新年を迎える大晦日の夜を平壌学生少年宮殿で子どもたちと共に過ごすと知らされ、招待を受けた。世界的に偉大な政治家として名望の高い金日成主席はいったいどのような人であろうか、と氏は高ぶる胸を鎮めることができなかった。
 待つほどもなく金日成主席が学生少年宮殿に到着した。宮殿は「万歳」の声でどよめいた。数十人の少年少女が、「アボジ、アボジ」と叫んで下車した主席を取り巻き、腕にぶらさがり、手を伸ばし、涙を浮かべている。波のように大きく揺れる子どもたちにつつまれて、主席の大きな体躯も左右に揺れていた。満面に笑みをたたえて子どもたちの頭をなで、腰をかがめて子どもたちの話を聞く主席。高木健夫氏は言い尽くせぬ大きな感動に包まれた。

 子どもたちの流れは  
 海の波の揺れるよう
 この揺れる波に乗り 
 楽しそうに揺れ動く 
 船かとも思えるお方

 後日、氏はこの時の光景をこう歌い、次のように語った。「新年を大勢の子どもたちと一緒に迎える国家元首が、はたして世界のどの国にあるだろうか。世界各地を巡り歩き報道を業とする新聞記者である私ではあるが、他の国では未だ見たことがない。……この目で見、聞いたすべてが極めて熱狂的であった」。氏の感動は少年少女の迎春公演の第1部が終わり、応接室で主席の接見を受けた時いよいよ深まった。主席は氏の挨拶に答礼してその手を強く握り、風邪を引いているということですが、身体の具合はいかがですかと、見舞いの言葉をかけ、「あなたは新聞記者ですが、きょうは親友として新年を一緒に迎えましょう」と言った。主席の全身と太い声から春の日ざしのような人間味を覚え、その謙虚でざっくばらんな人柄に感嘆した氏は、新年を子どもたちと一緒に迎える偉大な政治指導者にこのようにお会いできて感動を禁じえません、と述べた。
 主席は、「有難う。子どもたちと一緒にいると若返るようです。高木先生も10年ほど若返ったことでしょう」と言って豪快に笑った。氏は自分の気持ちがおのずと主席に引かれるのを覚えながら、世界にこのような偉大な人民型の指導者もいるのだなあと思い、目頭が熱くなった。人民といささかの距離も置かず、彼らの中にいることを真の楽しみ、喜びとする方、初めて会った人も直ちに旧知のようにざっくばらんに話し合える雰囲気をかもし出すおおらかなこだわりのない品格。この日の子どもたちの迎春公演で高木健夫氏が知ることになった主席の風格は、かつて経験したことのない真の人民的指導者の新しい世界であった。
 氏のこのような心情を理解するうえで、氏が日本の言論界が公認するアジア専門家であるという事実を見逃すべきではなかろう。北京法文学堂を卒業し若くして記者生活の第一歩を踏み出した時から頭髪が白くなる時まで、政治には一切左右されないという態度で南朝鮮、東南アジアの熾烈な戦場をはじめアジアのほとんど全域を巡り歩いた。さまざまの事件を取材し、有名人を訪ねて駆け巡ったこの人生遍歴で、有名無名の多くの政治家、指導者に会いながらも、そのどの誰についても注目すべき記録をとどめることのなかった氏の以前の文筆活動が語るように、彼らは理念と主張、品格のどの側面においても氏に衝撃的な印象を与えることはなかった。
 主席の人間的風格に消し難い印象を受けた高木健夫氏は、朝鮮で体験したことが今更のように思い返された。氏が平壌に到着したのは1971年12月下旬であった。平壌に到着した時に、病弱な氏は風邪を引いた。このことを知った主席は氏をホテルから国賓用の招待所に移し、精密な検診を受けるようはからった。医師たちは氏の身体を精密に検診し、腸が衰弱していることを知り、それはそしゃくが不十分なことに原因があるとして、総入れ歯を行った。12月25日の夕方に歯を抜き、29日には主席から贈られたリンゴを食べることができた。入れ歯としては驚異的なスピードであった。それまで長年リンゴの味を忘れていた氏は、胸の奥底にまでしみとおる思いがするあまずっぱいその味が、故国日本でも、自分を生み育ててくれた両親からも受けたことのない、慈しみ深い人間的愛情として胸にしみ渡る思いを噛みしめた。
 氏はのちに、主席の配慮は決して異例的なものではなく、朝鮮人民すべてが主席の愛に包まれ、それが一介の平凡な外国人記者である自分にまで及んだということに思い及び、朝鮮滞在中に受けた強烈な印象、主席と人民大衆との関係は慈父とその子たちとの間にだけ見られる愛と信頼の関係であり、それは自然に醸成された関係であると理解できた。朝鮮人民にとって金日成主席は、国家の最高指導者である前に血の通うやさしい慈父だったのである。氏が朝鮮で会った人たち、幼い子どもたちから高齢の老人に至るまで、主席のことを語る際は、「われらの領袖」と呼んでいた。氏は、主席に対する人民のこの呼称こそ、主席の無限の愛への人民の信頼と敬慕のこだまだと信じた。氏は主席に会った感激をこう語った。
 「わたしは世界の多くの政治家に会っているが、金日成元帥のように広い識見と豊かな人間味を持つ偉大な人物に会ったことはない。その識見と全身にみなぎる人間愛は、ただ惹かれるという程度ではなく、人の心と魂を完全に魅了させるものであった」。
 このように氏は、主席の偉大な風格から真の指導者の新しい世界を発見し、生涯忘れられない衝撃を受けたのであった。氏がチュチェ思想の真理性に共感し、その熱烈な信奉者、宣伝者となったのは、主席に完全に魅了されたことと無縁ではない。氏は朝鮮の各地を取材する過程で主席への尊敬心を高め、チュチェ思想の正当性を確信するに至った。高木健夫氏は平壌、咸興(ハムフン)をはじめ各地の工場や農村、文化機関を巡り、平凡な労働者たちの家庭も訪れて、「金日成元帥は常に人民の中におられ、人民のための真の政治を行っていることを肌で感じた」と書いているように、朝鮮の至る所で主席の偉大な指導の足跡を見、降仙(カンソン)のチョンリマ作業班運動の先駆者、青山里(チョンサンリ)協同農場の管理委員長、著名な博士や教授たちに会い、彼らの誰もが主席の指導によって朝鮮は力強い前進を続けており、その中で自分たちの運命も開かれていると誇らしげに語るのを聞いた。長期間の取材活動を通して氏は、主席の人民愛は単なる人間的な慈愛にとどまらぬ、人民大衆を導き彼らが主人となった新しい歴史、彼らの無尽の力に依拠して新しい世界を創造していく、人民の歴史を展開する、世にたぐいのない偉大かつ崇高な愛であり、その愛こそ長期にわたる苦難の革命闘争過程で鉄石の如く固まった、人民大衆こそ世界で最も知恵深く、力のある存在だとする確信に基づく、永遠の愛であることを感得した。氏は、「そうだ、これこそチュチェ思想であり、その偉大な力である」と心の底で叫んだ。
 このように現実を具体的に取材した過程は、崇高な人間愛から出発し、それを理念として人間中心の新しい歴史を創造していく思想の英才、領導の芸術家金日成主席の内なる世界を発見していく感激の日々であった。こうして高木健夫氏はチュチェ思想に深く引き込まれ、その真理性を体得し、熱烈な信奉者へと転身していく意義深い日々を送ったのである。