本文へスキップ

アジア・ウオッチ・ネットワークはアジアに幅広い取材アンテナを張ります。

アジア・ウオッチ・ネットワークAsiaWatchNetwork


見出し特別供覧「金日成主席と日本」3.「嘆願書」を持って現れた日本人学生 4.日本人妻の喜び  
日)

3.「嘆願書」を持って現れた日本人学生

 漆黒の闇の中で春雨がしとしと降る38度線を越えて行く青年がいた。警備のソ連軍衛所の灯火を右手に見ながら夜を徹し、泥まみれになり、這うようにして越境している彼は日本人学生金勝登だった。旧満州育ちで、東京に勉強に来ていた彼は、1945年8月15日、日本の敗戦によって親兄弟との連絡を絶たれ、不安な日々を送っていた。当時、彼と同じような境遇の学生が集まって「在外父兄救出学生同盟」を結成し、彼は「実践部担当委員」として活動した。

 解放を迎えた朝鮮人はやがて訪れる冬も喜んで迎えるであろう。ところが、敗戦国の人々はそうはいかなかった。本国に帰れず、朝鮮でまた冬を送らなければならない日本人にとってこの冬はひとしお苦になるであろう。一刻も早く朝鮮に残留している同胞を帰国させないと、寒さのきびしい北朝鮮での越冬は大変だろうという切迫感に駆られた彼は、たとえ死んでも北朝鮮に入り、金日成将軍に直訴し、一日も早く在留邦人が帰れるよう陳情しようと決意した。
 24歳という若い体内に流れる血は強く脈打っていた。 彼は、通称吉原光蔵という在日朝鮮人の手引きで1945年5月末、アメリカ軍の LST船で博多から南朝鮮に帰る朝鮮人の一団にまぎれこんだ。
 こうして38度線についたのは東京を出てから7日目だった。人々の目を避けるために、境界線突破は雨の降る夜を選んだ。幸運に恵まれ、ついに平壌に到着した彼は、捕まえられるのを悟で、金日成将軍がいるという北朝鮮人民委員会の門に走り込んだ。たちまち捕らえられた。彼を制止したのはまだうら若い三八式歩兵銃を持った歩哨の兵隊だった。驚いたことにその兵士は彼の用件を聞いて、「北朝鮮は民主主義の国だから東京から来た学生さんでもきっと金日成将軍に会えますよ」と流暢な日本語で話すのであった。
 彼は夢かとわが耳を疑った。金日成主席の謁見が許されたその日は、1946年6月3日だった。主席のかたわらにいた秘書官も巧みな日本語で「どうぞお話しください」と促した。金勝登は大きな声で金日成将軍に訴えた。 「いま朝鮮にとり残された日本人は、食糧もなく、病気がまんえんし、自由に旅行したり、仕事をすることもできません。一日も早く日本に帰れるよう閣下のご配慮を切にお願いしてやみません……」その声は震えていた。
 主席は彼の複雑な心理を瞬間に把握したかのようにほほ笑んだ。「戦後の困難で複雑な時期に、日本からはるばる来訪するのは大変だったでしょう。あなたが同胞愛を抱いて、北朝鮮に残留している日本の同胞の帰国を実現させようとわれわれを訪ねてきたのは、殊勝な行いです」
 主席はソウルの日本人援護会♂長の「嘆願書」を受け取ったとし、わたしは、北朝鮮にいる日本人の帰国を実現させようとする会長の嘆願と、「在外父兄救出学生同盟」の意思を反映しているあなたの切なる願いを十分理解できる、と温かい口調で語った。彼はわが耳を疑った。主席の言葉を通訳する秘書官の口元を彼はまばたきもせず見つめていた。
 主席は語を継いだ。
 「北朝鮮にいる日本人の帰国を実現させることは、日本人民の切なる願いであるだけでなく、わが北朝鮮政府と人民の意向でもあります。今しがたあなたは、北朝鮮にいる日本人の苦しい立場について話しましたが、われわれも彼らの苦しみはよく知っています。こんにちの北朝鮮の厳しい食糧事情やその他の問題からしても、日本人の残留は朝鮮人民にとって決して望ましいことではなく、かえって負担になると言えるでしょう。けれども、われわれはこれまで人道的立場に立って日本人の身の安全をはかっており、彼らの帰還を許可し支援しています。
 解放後、朝鮮人民が日本人に冷たく当たったことや、一部の保安隊員が不法脱出を企てた日本人に対して取った行動について言うならば、それは過去、日本帝国主義者からあらゆる民族的蔑視と迫害を受けてきた朝鮮人民の積もりに積もった民族的うっ憤の噴出であったと理解すべきです。北朝鮮に駐屯している一部のソ連軍兵士が日本人に暴行を加えたこともあったと言いますが、それは彼らが日本の侵略軍と交戦関係にあった兵士であることを考えれば、あり得ることだと思います」主席は深い思いに沈み、やがて語を継いだ。
 「朝鮮人民は、わが国を占領し36年にもわたりあくどい植民地支配を実施した日本帝国主義支配層に反対しているのであって、決して日本人そのものに反対しているのではありません。まして朝鮮人民は、在日100万同胞の帰国を実現できずにいる不幸を抱いているだけに、北朝鮮にいる日本人の苦痛は理解しており、彼らの帰国実現を支援するつもりです。今アメリカ軍政は、北朝鮮に残留している日本人が南朝鮮地域を経由して帰国するとなれば疫上の問題が生じると言って、帰国を妨害していることはあなたも承知のことだろうと思います。しかしわれわれは、日本人帰還の問題はソ米両軍側とも積極的な交渉を行い、可能な限り努力して帰国が一日も早く実現されるようにする考えです。目下の状況で日本人全員を一度に帰国させるには輸送能力が追いつかず、その他にも困難が多々ありますが、安全に帰国できるよう最善の措置を講じるつもりです」。主席は一語一語力をこめて語った。

 前に立っている日本人はどこにでも見られるごく平凡な学生だったが、主席は、前触れもなく駆け込み、直訴の挙に出た行動をいささかもとがめず、彼の肩を軽く叩いて言った。
 「政府としては、日本人帰還の問題が正式に解決されるまで、残留している日本人の身の安全と生活上の便宜をはかることにします。あなたは今、北朝鮮では食糧不足で労働者、事務員に食糧を満足に供給できない状況にあっても、日本人には食糧を配給し、貨幣も交換してやっていることを大変ありがたく思うと言いましたが、そういう気持ちなら結構です。われわれは日本人を差別せず、北朝鮮に永住しようとする日本人には永住権を与え、外国人待遇も与えるでしょう。職を求める日本人には、それぞれの技術と希望に応じて職も斡旋することにしています。
 朝鮮人民と日本人民との親善をはかり、社会の民主化を実現するうえで、新しい世代の役割はきわめて重要です。これからいっそう勉学に励んで日本社会の民主主義的発展と、朝鮮人民と日本人民との友好関係の発展のために努力してくれるよう期待します」。
 彼は涙があふれ出るのを抑えようがなかった。その手の甲には涙がしたたり落ちていた。主席は感激している日本青年を見つめ、「あなたが安全に帰国できるよう、われわれの当該機関に手配します」と言った。主席は約束どおり、彼が日本に安全に帰国できるようこまごまと気を配った。
 ほどなく、日本居留民の送還が本格的に始まった。


4.日本人妻の喜び

 朝鮮全国が解放の喜びと建国の熱意に沸き立っていた。医師・李炳W(リ ビョンフン)一家も大きな喜びにひたっていた。祖国の解放前、貧しくても向学心が強かった李炳Wは、親類の援助を得て京城(キョンソン)医専を出た。学問によって朝鮮人の優秀さを示してみせるという民族的自負をもって医学の研究に精力を傾けた彼は、20代にして博士論文を書き上げた。
 しかし、博士論文を日本名で出すことを強要されて憤激した彼は、名誉をかなぐり捨て、自力で前途を開こうと決心し、生まれ故郷のソウルを後にして 平壌に移住した。ここで彼は、5年契約で銀行から高利で多額の金を借りて、中国人が経営していた大同(テドン)江畔の3階建ての料理店を買い取り、病院につくり変えた。ここに「李炳W外科専門病院」の看板を掲げて開業した彼は、日本の軍人や手先からは高額の治療代を取り、貧しい労働者や農民は低額で、時には無料で治療した。

 こうして祖国の解放を迎えた李炳Wは、金日成将軍の凱旋演説を聞き、希望に燃えて、自分も国づくりに一役買おうと心に誓った。 李炳Wには西本春子という貞淑な日本人妻がいた。彼女は、貧しい農家の生まれで、8人兄妹の末っ子であった。幼くして両親をなくし、長兄はブラジルへ移民し、残った兄妹は生活苦にあえいだ。彼女は、自分がいなければ家庭の負担が少しは減るだろうと考え、19歳の身で単身朝鮮へ渡った。彼女はある病院の看護婦になり、ここで李炳Wと知り合い、結婚した。
 朝鮮の解放を迎えた時、彼女は一抹の不安を覚えた。日本人の自分が解放された朝鮮の地で心置きなく生きていけるだろうかという思いだった。ただ、夫の自分に対する態度にはなんの変化もなく、相変わらずやさしくしてくれるのが不思議でもあり、心強くもあった。

 金日成主席の凱旋演説を聞いたその夜、「…知識のある人は知識で、金のある人は金で。まさにそのとおりだ。ぼくにも愛国的良心はある。何をくよくよすることがあろうか」と口走り、部屋の中を行ったり来たりする夫の姿を眺めていると、彼女の心のしこりも取れていくようだった。李炳Wは妻にきっぱりと言った。
 「病院を国に納めよう。ぼくの医術を祖国のため、人民のためにそっくり捧げたいのだ」。春子はあっけにとられた。平素無口な、感情を表に出すことがほとんどない夫がどうしたことだろうか、と思ったのである。 ところが、それから間もないある日、彼らの情熱と喜びは一転して不安に変わった。彼らの身辺にきびしい試練が迫ったのである。
 一部の不純分子が、解放直後の複雑な情勢に乗じて李炳Wを親日派ときめつけて病院を差し押さえ、一家全員を自宅に軟禁したのである。部屋の中には冷気が漂い、訪問客もなかった。李炳Wはむっつりとして落ち込み、妻は夫の顔色をうかがいながら不安におののいた。
 この地に生活の根を下ろして14年、その間万事に慣れ、祖国と変わりなく思ってきた朝鮮。その朝鮮を捨てて日本へ帰らなければならないのか。それも愛する夫と子どもたちを残して……
 彼女は肺腑をえぐられる思いだった。食事も喉を通らず、眠れぬ夜が続いた。そんなある日、李炳Wは思い切ったように言った。「仕方がない。つらいけど別れるしかない。2人の息子はぼくが育てる。君は娘を連れて日本に帰りなさい」血を吐くような夫の言葉に、彼女は茫然自失した。目の前には夫が用意した背負い袋が置かれてあった。妻が楽に背負っていけるようにと、李炳Wが必要な物を揃えて入れた袋である。
 春子は窓の外をぼんやり眺めていた。本当に別れるほかないのなら、いっそのこと玄海灘に身を投げて死んでしまいたかった。
 その時、玄関の戸を叩く音がした。外には見知らぬ人が立っており、金日成将軍が李炳W医師を呼んでおられると言うのであった。それは、1946年10月16日のことだった。
 李炳W一家が試練にさらされ、運命の岐路に立っていた時、彼らに再生の道を開いたのは金日成主席であった。李炳Wを呼びよせた主席は、おのれの過去を恥じて恐縮する彼をなだめ、先生に親日派のレッテルを貼ったのは悪者どもの仕業だ、誰がなんと言おうとわれわれを信じなさい、われわれは決して二言を弄しない、先生はわたしを信頼し、わたしは先生を信頼して、手を取り合って働こう、と励ました。そして、今日からわたしたちは同志になろう、これからわたしは先生を李炳W同志と呼ぶ、先生もわたしを金日成同志と呼びなさい、約束しよう、われわれは旅の一時の道連れではなく永遠の同志となるべきだ、と力をこめて言った。
 驚くべき主席の言葉に、李炳Wは感謝の言葉をなんと述べたらよいのか分からなかった。主席はそんな彼に、われわれは保安幹部訓練大隊部に病院を一つ設けることにした、ついては、その病院の院長に先生が就いてもらいたい、これはわたしの頼みであり、同時に朝鮮革命の要求でもあると言い、副官に用意した軍服を持ってくるよう指示した。
 赤い筋の入った紺の乗馬ズボンと少佐の肩章が付いた上着、軍帽を受け取った李炳Wは、顔を両手でおおい、一層激しく嗚咽した。泣くのはよしなさい、と主席が何度もなだめたが、李炳Wは泣き続けた。泣いてばかりいると話したいことも話せないと言う主席の言葉に、李炳Wは鳴咽を抑え、震え声で「将軍、このように将軍の過分な信頼にあずかってみると、自分の過去がいっそう恥ずかしくなります。わたしの妻は日本人です。祖国も解放されたのですから、妻を日本に帰します」。ととぎれとぎれに言った。
 主席は顔をくもらせ、そのことはわたしも知っている、子どもたちが3人もいるというのに夫人を日本に帰すとはなんということか、とたしなめた。
 「先生は今、夫人が日本人だということで心を悩ませ、彼女を帰国させようとしているそうですが、それについては考え直してみるべきだと思います。先生が夫人を帰国させようとしているのは日本人居留民に対するわが人民政権の施策をよく知らず、また夫人の意向を十分考慮せずに決めたことだと思います。われわれ共産主義者は日本帝国主義者に反対するのであって、決して日本人民に反対するのではありません。われわれは日本人居留民に対し、本人の意思にしたがって、帰国を希望する人には帰国を保障し、わが国への残留を希望する人には永住権を与え、差別するようなことはしないでしょう」。
 主席はとめどなく涙を流す李炳Wに慈愛にみちたまなざしを向けた。
 「わたしはすでに、先生の夫人が日本の女性だということを知っていました。彼女は日本の極貧家庭に生まれ、早くに親を失い、生活に困って朝鮮に渡ってきた不幸な女性です。それにもかかわらず、今となって彼女と別れ、子どもたちまで母親と生き別れにさせてよいものでしょうか。夫人が先生と別れることを望まず、子どもたちとも別れたくないから帰国しないと言うなら、本人の願い通り、わが国で一緒に暮らすのがよいでしょう。国籍が違うという一つの理由で、幸せな家庭を破壊するのは、人倫・道徳の面からも正しいことだとは言えません」。主席は彼の手をやさしく撫でながら、言葉を続けた。
 「わたしは先生を信ずるからには、夫人も信じます。先生は夫人が日本人だからといって、少しも萎縮することはありません。先生が日本人女性と暮らしていると非難したり、迫害しようとする者がいれば、われわれが責任を持って、そうさせないようにします。先生は解放直後、一部の偏狭な人たちによって『親日派』のレッテルを貼られて病院を差し押さえられ、家に軟禁させられるなど、ずいぶん悩んだそうですが、今後はそのようなことはないでしょう。
 われわれは先生の過去の生活を疑ったり問題視したりせず、民族の良心と愛国心を非常に尊ぶものです。今日から先生はわたしを信頼し、わたしは先生を信頼して、手を取り合って働きましょう。われわれは一時的な道連れではなく、永遠の同行者となるべきです。先生は常にわが党と人民政権だけを信頼し、希望と楽天的な気分を持って力強く生きていかなければなりません」。
 主席は、先生の入隊を祝って記念写真を取ろうと言い、かたわらの将校に院長同志の着替えを手伝うようにと言った。主席は、李炳Wを居合わせた抗日闘士たちに紹介し、今日は天気がよいから外で撮ろうと言って、写真屋に、われわれがいつまでも記念できるように写真を上手に撮るようにと念を押した。夢にも考えなかった大きな光栄に浴して帰宅した李炳Wは、妻の手をつかみ、全身をわななかせた。大粒の涙がその手の上に落ちた。

 その後、金日成主席は、西本春子の願いを容れて彼女の朝鮮籍取得を手配した。彼女は、1948年、朝鮮の公民証を交付され、その時、夫の姓を名乗って李春姫(リチュンヒ)と改名した。彼女が朝鮮の言葉や文字もよく知らないことを知って、金正淑(キムジョンスク)女史は、彼女が抗日闘士の夫人たちと一緒に女性同盟生活をするようはからうとともに、彼女に朝鮮の言葉と文字を教えるよう女性同盟員たちに任務を与え、上達が速いという報告を受けてとても喜んだ。
 金日成主席は李炳Wに重要な任務を与えた後も、引き続き医術を磨くよう励まし、祝日や国家的に意義の深い日には宴会に招いた。また、彼の功績を高く評価して折あるごとに勲章やメダルを授与するようはからい、彼が一生を立派に生きていくよう政治的生命の保護者となった。

 このように、金日成主席のあたたかい配慮のもと、日本人女性李春姫は大きな希望と美しい夢を抱いて幸福な一生を送った。