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見出し特別供覧「金日成主席と日本」   60. もっとも謙虚な人間 
日)

 1973年9月30日、未来社編集局長松本昌次氏は金日成主席の接見を受けた。氏は著書『朝鮮の旅』(すずさわ書店1975年)に金日成主席との接見記を掲載した。
 「帰国も目前に迫った1973年9月30日、わたしたち(写真家矢田金一郎氏と)は、思いがけなくも金日成主席から招かれた。わたしは、ふたたび朝鮮を訪れるにあたっても、主席にじかに会えるとは思わなかった。わたしは一個のジャーナリストではあるが、新聞記者や雑誌記者のように、何かを報道する義務は持っていなかった。また、何かの政治団体の代表として訪問しているわけでもなかった。いわばフリーの立場にあった。従って再訪にあたってわたしが希望したのは、できるだけ多くの朝鮮人民と話しあいたいということであった。たとえば自分の固定した観念でひとの国と自分の国の優劣をさがしまわったり、政治体制がどうなっているかと首をつっこんでみたりすることは、避けるように努めた。むろんその任でもなかった。朝鮮人民がかつての苦難の道のりをどう歩んできたか、そうして現在はどう生きているかを、日常的な観点からわたしの知覚のすべてで感じとりたいと願ったのである。
 その日以前、わたしたちは、金日成主席と握手し、ふたことみこと、言葉をかわす機会はあった。9月8日、平壌体育館でおこなわれた朝鮮民主主義人民共和国創建25周年慶祝中央記念報告会の会場でであった。また創建記念日当日の9月9日、南浦(ナンポ)市で行われたマスゲーム見学のあと、万寿台(マンスデ)議事堂で開かれた慶祝宴の席上でであった。主席は、各国からきている公式の代表団とはちがい、まったくフリーの客であるたった2人のわたしたちの掌を固くにぎり、健康を気づかう言葉をかけてくれた。慶祝宴の席上、主席のはじめての演説を聞いた。いや、それは演説というより、談話といったほうがいいだろう。段落の冒頭で、必ず『トンジドゥル(同志の皆さん)…』と始まるその談話は、決して獅子吼調ではなく、冷静で、重味のある声でつらぬかれ、ある優しさすらわたしは感じた。一人のフリーの人間にとっては、これで十分であった。それが、突然の招きである……。
 その日も、秋晴れの素晴らしい天気であった。関係者の人からそれとなく暗示があり、気の弱いわたしは、ある種の緊張感を覚えざるを得なかった。いったい、そんなえらい人と何を話したらいいのだろうか。そういう機会になれないわたしは戸惑った。午後1時すぎ、招待所を車で出発。『果樹園でも見ましょう』ということで、車はひろびろとした果樹園や田畑をぐるぐると通り抜ける。主席は、近くの農村に現地指導に行っているとのことだった。やがて、山間の閑静な小じんまりした招待所か休養所に到着。深い樹々に囲まれているためか、すでに暮色が垂れこめはじめている。車を降りると、すでに主席は庭の中央でわたしたちを待っていた。握手、挨拶、そして記念写真。率直にいって、わたしはカチカチになっていた。朝鮮人民の敬愛する指導者と直接会うなどということは、わたしにとって想像もつかないことであった。はじめは、庭で話そうかということのようだったが、秋深い夕暮れ、すでに冷気があたりに漂い、すぐに応接室に入った。
 金日成主席との談話は応接室で約1時間20分、食堂で食事しながらの約1時間40分、計3時間であった。わたしたちの緊張が、主席の談話がはじまった途端、あっという間にときほぐされてしまったことはいうまでもない。実に気楽に笑い、身ぶりをまじえた率直でユーモアに満ちた談話は、たちまちのうちにわたしたちをまきこみ、ゆったりさせてくれた。煙草をすすめ、マッチをつけてくれ、食事の時には調味料に何をつけたらいいかにまで気をくばる主席の暖かい態度には、いわゆる『政治家』というものにある種の偏見を抱いていたわたしを驚かせた。朝鮮人民が主席をアボジ(慈父)と呼ぶ気持もわかるような気がした。その3時間は、楽しい、あっという間の3時間であった。通訳の人のものの見事な同時通訳は、直接話しているような感じであった。
 ――今日は、特別の話題について話しあうわけではありませんから、友人として気楽に話しあいましょう。元山(ウォンサン)から金剛(クムガン)山へ行ったそうで、それは大変よかったと思います。九竜(クリョン)淵までは歩いて行くのが一番いいんです。金剛山には宿泊所が少ないんですが、まだ十分に宿泊所を作ることができません。これからもっと作りたいと思っています。若い人たちはテントを張ってキャンプしているようですが、若い時はそれも楽しいし健康にもいいでしょう。昔は、地主や資本家の別荘があり、遊廓などもありました。(笑)わが国の北部には休養所がたくさんあります。この次に来た時は、北部のほうへいらっしゃい。しかし北部は寒さが早くきて、秋にはもう雪が降ることがあります。7月か8月がいいでしょう。わが国の人びとも、夏は涼しいのでたくさん出かけます。今日も、近くの協同農場に行ってきたのですが、今年の米の収穫は、まあいいほうでしょう。1へクタールあたり平均6トン、場所によっては8トン、最もいいところで10トンでしょうか。わが国では、土地のカードを作っています。全国至るところの土地を調査して、その土質の特徴を調べ、カードを作るわけです。農業大学の学生や技師が総動員で2年がかりで完成しました。その土地の成分によって、適合するマグネシウムやカリウム、ホウソ等を配合するわけです。化学工場を増設してそれらを生産していますが、使用するのは僅かの量です。各農場に農業大学の学生2人ずつを配置しましたが、農民を指導するほかに、彼等は農民から教えられるわけで、お互いに向上します。医者に行けば、一人一人身体の状態を書いたカードがあり、それさえあれば、医者がかわっても、一目でその人の身体の状態がわかります。それと同じで、土地にもカードを作り、誰が行ってもその土地に適合する肥料がわかり、どういう品種がいいか選べるようにしたわけです。その結果がでてきたのでしょう。稲穂を抜いて調べてみましたが、去年は1本の稲穂のうち12〜13粒がカラ粒でしたが、今年はカラ粒が2〜3粒でした。どこの農場でも、去年より増産しています。少ないところでも500キロから800キロぐらいが普通ですが、1トン増産しているところもあります。今朝もある農場へ行ってみましたが、今年6トンの収穫を来年どのくらい増産するのか尋ねたら、2トン増産すると答え、『空を見あげていっているのではなくて、科学的根拠があります』といっていました。(笑)いまわが国の農民は、解放前の中農以上、いやそれ以上の生活をしています。解放前の自作中農は5月の麦の収穫期までいかに食いつなぐかが問題でした。しかしいまの農村は、次の年の米の収穫期まで何の心配もありません。余った米を貯蔵する倉庫を作らねばなりませんが、それはいいことですからね。
 先日、農業大学の実習生を集めていろいろと話しあい、意見を出させました。そこでわたしは、昔話を一つしてやりました。このあたりに伝わる昔話ですが、いまの若い者は新しい本ばかり読んで昔の本を読みませんからね。昔、長い大雨が降りつづき、村は洪水で水びたしになりました。地主は、金庫から金を持ちだして木に登りました。農民は、握りメシを持って木に登りました。お互いに話ができる距離でした。なかなか水がひかず、2人ともお腹がへってきました。そこで地主は、お金を払うから握りメシをくれないかと農民にたのみました。農民は考えました。このさいはお金より食べ物が大事だ。農民は首を横にふり、握りメシを食べて水のひくのを待っていました。水は何日もひかず、地主はついに空腹のため、木から落ちて死んでしまいました。この昔話で、米がいかに大事かということを話したわけです。米が沢山あれば、人の心は安らかです。いま農民は、昔の中農というより、富農の下ぐらいかも知れません。さらに向上させたいと思いますが、いくらなんでも地主ぐらいまでという言葉は使うわけにはいきませんね。(笑)それは遊んで暮らすということですから、つまり大事なことは、重労働からの解放ということです。そのためには、トラクターが必要です。現在、100町歩あたり2〜3台です。これを平均6台に増やすのが目標です。技師や農業大学の学生に尋ねたら、8台あれば完璧だと答えていました。そうすれば骨の折れる手仕事がなくなるでしょう。稲の自動刈取機も作ってみました。先日も、学生が考案した刈取機を実験してみました。彼は自慢して張り切って動かしてみたんですが、雨のあとで、後輪はいいのですが前輪がうまく動かず役に立ちませんでした。(笑)雨のあと役に立たないのでは仕方ありません。日本からも試験的にとり寄せてみました。作動はよく、手で刈るよりは速いのですが、手押しなので手が疲れます。イタリアのも調べてみましたが、稲のまん中あたりを刈るのでやはりダメでした。(笑)そのほか、フランスなんかからもとり寄せています。
 農村が豊かになるのは、風景としても大変気持いいものです。農民は、冬の間は学習をしています。解放直後、農業大学は平壌と元山に二つしかありませんでした。解放前はむろん一つもありませんでした。それが現在、各道に一つずつあり、そしてそれぞれの道の実状にあった教育と農業にたいする援助をおこなっています。もう2年もすれば、技師の数もふえ、農業もさらに発展するでしょう。教育には、わが国は沢山の金を使います。予算の大部分が教育費で、余った分を他にまわすわけです。
 万寿台芸術団が日本公演から帰ってきて、団長から電話で報告がありましたが、大変な歓迎を受けたとのことでした。わたしは、万寿台芸術団が芸術的にそれほどすぐれているとは思いませんが、日本での公演の意義は、芸術を見せるというより、日本人民とじかに触れて、朝日両国人民間の友好親善がどんなに深いものであるかを知ることだといいました。過去の日帝支配者と日本人民とを区別しなさいといっても、どうしても怨みが残っている人がいます。だからこの目で見てくれば、日本人民がどんなにわが人民と友好親善をのぞんでいるかがわかるといったわけです。出発の時、団員がみんな泣きだしました。中国とかフランスとかイタリアとか、世界の各地に出発する時に泣いたことのない彼等が、みんな泣きだしました。日本に行くということで泣くんです。なにをそんなに泣くんだ、泣くことはないといいましたが、その気持はわかる気がします。在日同胞と会えるということは、ほかの国に行くのとはちがいますからね。帰国してから、団長の電話を受けましたが、わたしはまだ会っていません。万寿台芸術団は、中国で1か月の予定が、ひきとめられて2か月も公演し、休むひまもなくすぐに日本に渡って60日・50回公演をしたわけですから、金剛山にでも行ってゆっくり休養してくるようにいいました。報告はいつだって聞くことができます。団長の電話によれば、日本人民がこんなに歓迎してくれるとは思わなかった、朝日両国人民の友好にとって大きな意義があったということでした。万寿台芸術団の若い人たちが肌でそのことを知ってくれただけでも、わたしはよかったと思っています。………この前の非同盟諸国会議でも、80余か国の参加国が満場一致でわが国の加盟を支持しました。誰がどんな悪口をいっても、歴史はちゃんと進むものです。それにしても、南朝鮮当局は何をやっていますか。白昼公然と日本から金大中キ(ムデジュン)氏を誘拐するんですからね。彼等のやることといったら、まったく驚くほかありません。わが国にとって最も大事なことは、祖国の自主的平和統一ということです。どうして祖国を分断したまま、子孫に残すことができるでしょうか。祖国を統一すること、これはわたしたちに課せられた重大な責任です。――日常的な対話を省略すると、金日成主席の談話は、ほぼ以上のごとくである。
 わたしは、主席の著書『社会主義的教育論』(未来社刊)を制作して持参していた。つまり、原著者にできあがったばかりの本を日本から持ってきていたのである。共和国に着いてすぐ係の人に見本をわたしてあるので、すでにその本を受け取られたかどうかをわたしが尋ねると、主席は、『確かに本は受けとりました。しかし、創建記念日にあたって何かと忙しく、カバーや表紙をちょっと見ただけで、そのままにしています。カムサハムニダ(感謝します)』と答え、話題はあっという間にほかに移って行った。そこには、自分に関したことについては、まったくといっていいほど触れようとしない謙虚さがうかがわれた。自分のことには一切触れず、わたしたちの健康状態や毎日の生活状態を聞き、果ては日本にいる家族のことや、仕事の仲間のことまで気づかう主席の思いやりには、ただ感心するほかなかった。
 考えてみれば、特に何かの使命も持たないわたしたちフリーの人間には、主席に会うこと自体、大変なことであろう。そういえば、最初の旅の時である。共和国を去るにあたって、主席に直接お礼の言葉を伝える機会がなかったので、わたしは係の人に手紙を託して帰国した。帰国して1か月余りたった時である。一通の長文の電報が届いた。主席からのものであり、そこには手紙を嬉しく読んだこと、また朝日両国人民間の友好をさらに前進させたいこと、そのために出版活動でがんばって欲しいことなどが記されていた。わたしは驚いた。予想もしないことであった。こんな小さなことにまで心をくばる一国の指導者がいようとは、思ってもみないことであった。
 朝鮮革命博物館を見学していた時である。ある期間の10年間に、主席は平壌以外の各地を1700か所現地指導したという説明を聞き、わたしは仰天した。2日に一ぺんは、地方のどこかに出ていることになるのだ。わが耳を疑ったほどである。しかし、たえず『対人関係』を党活動の中心に置く主席としては、あり得ることである。そのようにして、主席は、人民の生活のすみずみにまで心をくばりつづけているのである。またたく間に3時間が過ぎ、金日成主席に送られて建物を出ると、外はすでに夜で、庭にポツポツとあかりがともり、空気は冷やかだった。別れの挨拶をして10メートルほど歩き、ふとふりむくと、主席が、わたしたちに手をふっていた。主席に対して手をふるのは、何となく馴れ馴れしくて失礼な気がしたが、わたしも思いきって手をふった。車は、まっ暗な農村をつらぬく白い一本の道を、平壌に向け、一気に走り出した。空には無数の星が散らばり、わたしは、なんとなく深海の底にゆったり休んでいるような、心暖まる思いにひたっていた。
 その日の前夜、わたしたちは、『明るい太陽の下で』という映画を見ていた。一言でいえば、ダム建設の現場の苦闘を描いた映画である。しかし、そのダム建設には、抗日武装闘争と祖国解放戦争の歴史的経験が流れこんでいる。主人公である建設現場の支配人は、かつて、抗日パルチザンの一人として戦ったことがある。侵入した日本軍によって家は焼かれ、彼の妻は射殺される。燃える家のなかに投げこまれた幼い娘は、辛うじて近くのオモニに助けられる。その娘は成長して設計技師となり、ダム建設に当たっても革新的な意見をだす。のちに支配人が父だということがわかるのだが、彼女は、祖国解放戦争の兵士として、前線で戦ったことがある。深夜、降りつづく大雨で増水し、建設中のダムが崩壊寸前になる。ダムを守るためには、上流の堤防を爆破して川の流れを変えるほかないという主席からの指示が電話で入る。朝鮮人民軍が出動して待機するが、すべての連絡網は絶たれている。まっ暗ななかで、彼女は高台にたち、松明を手にしてかつての祖国解放戦争の時のように、手旗信号で爆破の合図を送る。かくして建設中のダムは救われる。土のうを積んだ堤防を守るため、スクラムを組んで水圧と闘う人びとの一人一人の姿は、わたしに、この半世紀に及んだ朝鮮人民の革命と建設の苦闘の歴史を思い起こさせた。わたしなどにはとても、想像のつかないことが、この国で起こったのだ。主席と朝鮮人民とのつながりにおいても、わたしの理解を遥かに越えているといえるだろう。
 一路、ひた走りに平壌に向かって走る車のなかで、わたしは、『明るい太陽の下で』朝鮮人民が、南北を問わずがっちりとスクラムを組む日のくることを、ただひたすら思いつづけていた」。