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見出し特別供覧「金日成主席と日本」    68.金日成主席の揮毫  
日)

68.金日成主席の揮毫

 朝鮮の統一と平和のための国際連帯委員会名誉委員長であった市川誠氏は、1931年早稲田中等夜学校を卒業して軍隊生活を送り、戦後ジョンソン飛行場に就職した。
 48年全国進駐軍労組同盟書記長、53年中央執行委員長、70年総評議長に就任し、退任後朝鮮統一国際連絡委員会副議長、日中民間人会議顧問を務めてアジアを中心とする国際舞台で活躍した。80年代以降、太田薫、岩井章両氏と共に総評三顧問として連合主導型の労働戦線統一に反対してたたかい、一方労働研究センターを結成して代表幹事となった。
 1974年10月12日の会見で金日成主席の揮毫を得た市川誠氏はいたく感動し、帰国後、映画の画面のように流れる接見の思い出を原稿用紙に一字一字書き記していった。
 「1958年4月、私は中華全国総工会の招待により、日本労働代表団長(総評、中立労連、新産別で編成)として北京メーデーに参加した際、たまたま朝鮮職業総同盟代表団から熱心に訪朝を要請され、東京の総評本部に連絡の結果、3団体の数十人が朝鮮を訪問しました。訪朝団は総工会の了承を得て10月8日北京を出発し、新義州(シンイジュ)を経て大歓迎を受けながら、まだ朝鮮戦争の生々しい傷跡を残している沿線の田畑に散在しているクレーターを眺めながら、大復興作戦展開中の平壌駅に到着しました。
 訪朝団は職業総同盟本部表敬後、万景台(マンギョンデ)見学、職業総同盟代表団との2回にわたる会談を行い、いくつかの工場、板門店(パンムンジョム)、咸興(ハムフン)肥料工場等を見学、視察し、10日間程友好交流を深めて、再び中国に戻りました。
 この訪朝では残念ながら尊敬する偉大な領袖金日成主席に拝顔する機会に恵まれませんでした。中国訪問を終えて帰国後、私は全国駐留軍労働組合の指導者として在日米軍を相手として日本人労働者の待遇、権利の向上のために奮闘しました。たまたま1970年に総評議長に選出され、図らずもその後中立労連議長に就任された竪山議長とともに1974年10月、第2回目の訪朝の機会を与えられ、団員諸君とともに、尊敬する偉大な指導者金日成主席に拝顔する機会を得ました。
 10月12日会談終了後、午餐会の栄に浴しました。私は主席の右隣の椅子に席を頂きました。主席は右足を軽く曲げて自分の椅子に乗せて話しかけられました。主席は常ににこやかな態度で、私が人参酒のグラスを乾すと、すぐに右手で徳利をとり上げてグラスを満たしてくれました。また、私の皿に『これは雉子の肉ですよ』と何回もとってくれました。美味しく頂きました。人参酒はたしか5、6杯位頂きました。私は以前から一つの願いを秘めていました。主席が余りに開放的ににこやかな笑顔なので、甘えてお願いをする決心をしました。勇気を出し、思い切って主席にお願いを申し上げました。『恐縮ですが是非、日本の労働者階級のために一筆揮毫を頂きたい』とお願いしました。
 主席はニコニコ笑いながら『条件があります』と言われました。いささか心配したが静かに御言葉を待っていたら『先例にしないことです』とおっしゃられました。私はほっとしながら喜んで『お約束します』とお答えしました。私は大きな役務を果たしたので人参酒が一段と美味しく頂けました。
 いよいよ翌13日、お土産の伝達式の日になりました。金永南(キムヨンナム)先生に呼ばれて部屋の前に進み出てびっくりしました。金永南先生が両手で捧げ持っている揮毫の額は正式に表装されており、しかも1間以上の大きい立派な扁額です。瞬間、私が立ち止まって大きな額をジーッと見ていましたら……。
 金永南先生が『市川さん、心配ありませんよ。帰りは主席専用の大型機で北京まで送りますよ』と言われました。私はようやく落ち着いて先生の前に進み出て大額を有難く頂戴致しました。大扁額には墨痕淋漓として次のように雄大な健筆で書かれていました。
 『全世界の労働者階級は団結して、帝国主義とあらゆる圧力に対し、また搾取のない新しい社会を建設するために闘争しよう!すべての人民の幸福のために。金日成1974年10月』
 なんと素晴らしい贈物か。まさに偉大な革命指導者の人民、労働者に対する暖かい期待と激励、先進的教導ではないか。私は思わず『よかった』と胸の中で叫びました。この記念の大額は以来、総評の応接室に飾られているが、やがて私は責任をもってこの大扁額を守らなければなりません。大きな太陽をしっかり守り抜いてゆきます」。