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見出し特別供覧「金日成主席と日本」    70.友情に国境はない  
日)

70.友情に国境はない

 1975年5月、大正大学助教授の林亮勝氏は、日朝文化交流協会理事長高木健夫氏とともに金日成主席の接見を受けた。主席は中国訪問から帰ったばかりであった。その日、両氏は金日成主席から食事に招待され、平壌郊外の別邸に向かった。
 よく晴れた土曜日の朝で、窓外に流れる田野は田植えの真盛りであった。横に並んで座っている高木健夫氏は深い追憶にふけっていた。氏は1971年の冬から72年春にかけて共和国を取材しており、そのルポは『読売新聞』に連載されて大きな反響を呼んだ。同じ頃出版した『領導の芸術家 金日成』は、、数回にわたって金日成主席の接見を受け、林春秋(リムチュンチュ)をはじめ主席とともに抗日遊撃戦を戦った人たちの話を聞き、農村、工場等を訪ねてまとめたもので、人々に大きな感銘を与えた。

 高木氏は練達のジャーナリストであると同時に、日本の敗戦後、最初の日本史分野でのベストセラー『生きている日本史』の著者でもあった。事実を見る目は鋭く、その中から真実をえぐり出す氏の筆力に太刀打ちできる者はいなかった。そのような実力と名声によって高慢といわれるほど自尊心も高く意地の強い高木氏が、すっかり主席に傾倒し、当時の多くの日本人にはまったくの未知の国であった朝鮮への理解を深めることの必要を痛感した。氏が朝鮮の南北分断が日本の植民地支配の結果であることをしっかりと認識し、朝鮮民族の統一が早期に実現するように努力しなければならないと確信し、多くの知友に呼びかけて結成したのが日朝文化交流協会であった。
 高木氏は主席の抗日遊撃戦時代に深い興味を持っていた。氏は、共和国建国の精神と、その国づくりの手法は遊撃戦時代の苦しい体験の中から生まれたものであり、だから遊撃戦時代をしっかり見つめることで、現在の朝鮮の政治的な考え方や社会の実情を理解する基礎ができる、と考えていた。そうした目的で1975年、林亮勝氏を伴って再度朝鮮を訪問したのであった。1904年生まれの高木氏はすでに70歳の高齢で、健康を思い、助手が必要だ、と周囲の人たちが考え、『生きている日本史』執筆以来氏を手伝っていた林亮勝氏が同伴することになったのである。
 林亮勝氏はほとんど朝鮮問題に対する知識がなく、朝鮮に向かいながらも心配していた。朝鮮から帰国後に会った友人が、真顔で、「君にはもう会えないかと思っていたよ。よく帰ってこられたね」と言ったものだが、敵の悪宣伝は人々にこのような影響を与えていたのである。氏は朝鮮の地を踏んでから、北朝鮮に対する宣伝は真っ赤な嘘であることを知った。朝鮮で聞いた笑い話がある。南側の漁民がしけで北側に漂流し、助けられた。漁民が「ここはどこか?」と尋ねた。「ここは北朝鮮だ」と言ったが、信じようとしない。彼らは、「北の住民には角が生えている」と教えられていたのである。日本人の場合も同じであった。朝鮮の人々に角が生えているとは思わなくても、「おそろしい国」というイメージは相当に広くしみこんでいた。林亮勝氏も、どこかにそのような気持ちがあった。それで高木健夫氏が文化交流協会の理事長になると言った時に、「仕事に支障がでるからおやめになったら……」などと言ったものである。
 このような考えは平壌滞在中に跡形もなく消えてしまった。暖かいもてなしを受けたから、朝鮮に対する考え方が変わったのではなかった。朝鮮の人々の生き方に共感が持てたことと、心のつながりができたことによるのである。それは厚い人情の絆ともいえる。人の心に残るのは、このような人間の真情である。
 氏は考えた。 ……日本と朝鮮とでは、社会体制はまったく異なる。しかし、そこに生活している人の気持ちには、当然のことだが、共通するものが多い。個人の生活を大事にするのか、国家・社会の利益を優先するのかは、基本的な差であるが、どのような体制でも、個人の生活だけがあるのではなく、また、全体のなかに個人の生活がまったく埋没してしまうのでもない。日本が植民地支配をしていた時代の大多数の朝鮮人の生活はみじめであった。
 私と同年輩のある朝鮮人幹部は、解放前家族の援助でなんとか旧制の中学に進学したものの、月謝が払えずに、2年で退学したという。しかし、今はどうか。全人民が就学前教育を含めて小学校から大学まで無料で教育を受けている。学用品、制服なども無料で支給される。1975年からは11年の義務教育が実施されるという。知識は社会を進歩させる原動力であり、それは労働によって強化され、労働はまた知識によって質が高められると、彼は大同江(テドン)のほとりを一緒に散歩しながら言うのであった。彼は「わたしたちは解放後何もないところから、偉大な指導者を中心に全人民が心を一つにして、誇りの持てる国をつくったのです」と言った。…… 車は簡素な2階建ての別邸の前で止まった。主席が玄関先で両氏を出迎えた。大きな主席が小さな高木氏を抱きかかえるようにして久闊を叙し、両氏は広間に通され、直ちに会話が始まった。前回の訪問の時のことや、その後出版された高木氏の著書のことなどがまず話題となった。国際情勢についての認識や今後の方針などについて高木氏が質問すると、明快な力強い答えがすぐに返ってくる。
 主席は、「高木先生はビールが好きだから、ビールを飲みながら昼食をとり、話を続けましょう」と言った
「お疲れでしょう」という高木氏の言葉に主席が、「疲れることもあります。そんな時は農村へ行き、農民たちと膝を交えて語り合います。少年宮殿へ子供たちの元気な姿を見に行くこともあります」と答える場面もあった。主席は、幹部は背のうを背負って現地へ出て行くことが必要だ、一人の足の弱い者にみなが力を貸して、その力を強めるようにしなければならない、大衆とともにあって、大衆の知恵を集約していかなければ社会の改革を進めることはできない、と強調した。林氏はおおきくうなずいた。
 その夜、高木氏は「何故こんなに大事にしていただけるのか私は一介のジャーナリスト、力のない野人なのに何故なのだろう」と言った。当時の林亮勝氏にはもちろんその理由は分からなかった。ただ金日成主席と高木健夫氏の会話を聞いていると、お互い相手の立場を十分に尊重しながら、その中で真実の言葉が交わされていることに気がついていた。2人のあいだにはいろいろな立場を超えての厚い友情があったように思えて「友情では…」と言った。すると高木氏は「主席のお気持ちは有難い。なんとも有難いね」と言うのであった。
 林氏を案内した若い通訳は外国語大学日本語科の出身で、通訳という選択がよかったかどうか考え込むことがあると言った。彼は、いまの職業に不満があるわけではない、しかし、主席にお目にかかるチャンスが少ないのだ、工場や農場で働いていれば、主席の現地指導を受けた際、運がよければ主席と言葉を交わすことができるかもしれない、いまはそのチャンスが少ない、そのことがとても残念だ、と言った。後日、林亮勝氏はこう書いている。「日本人は一度朝鮮国を世界地図から抹殺した。朝鮮民族を日本民族に取り込もうとさえした。この過去に拘泥することが必要である。……朝鮮人民は自らの努力で、誇りをもって『ウリナラ(わが国)』といえる国をつくった。それは『いつも人民とともにある』という言葉をそのまま実行している指導者を中心に、律儀に、ストイックなまでに今日を築き、明日をよりよくしようと考える人びとの努力の結晶である。私は何度もの訪朝で、多くの友人とめぐり合えた。
 ある国を思うということは、抽象的な観念ではない。友情に国境はない。友情を通してその国を見るという視点を大事にしたいと思っている」。林亮勝氏はのちに大正大学学長、日朝文化交流協会理事長を務めた。