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 遺 骨    (2013年2月13日)

 竹山道雄氏の小説「ビルマの竪琴」は、第二次世界大戦末期のビルマ(現ミャンマー)の戦場を舞台にした小説である。音楽好きの水島上等兵が伴奏する竪琴の曲「埴生の宿」に合わせ、味方も敵の英印軍も合唱する場面は印象的だった。
戦争が終わっても水島上等兵は、ビルマの地に消えていった戦友たちの霊を弔うため、現地に残り僧侶となった。
 この小説は、戦争文学の名作として知られ、たびたび映画化された。そのビルマ(ミャンマー)の密林には、いまも多くの遺骨が残る。とくに政府と対立していた少数民族の支配地域は、これまで調査さえなかなかできなかった。それが「1月上旬、14の少数民族武装勢力が支配する全地域を対象とした日本人戦没者の遺骨分布調査が始まる。

 同国の民主化と並行して、60年以上内戦を続けた政府軍と各勢力の停戦が進み、これまでは極めて難しかった同地域での全面調査が可能になった」(読売新聞朝刊)という。報道によると、ビルマには推定4万5000柱以上の日本軍人や軍属の遺骨が残るとみられ、厚生労働省は有力情報が得られ次第、遺骨収集に乗り出す方針という。

 かつて東南アジアは「南方」と呼ばれ、日本はここに向けて軍を進め、島々に、密林の奥地に攻め込んだ。しかし、戦線は伸び切り、輸送力は限界で、壊滅する部隊が多かった。なかでも暴挙といわれたのが「ビルマ・インパール作戦」だった。日本軍の移動手段はもっぱら徒歩で、険しい山地が行く手を阻み、雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗った。当然、物資、補給の面でも劣勢は明らかだった。英印軍の前に日本軍は敗退を続け、おびただしい戦死者を出した。1944年から無条件降伏するまでの間、インパール作戦を中心にビルマ方面に動員された日本軍兵力は、地上部隊だけでも約30万人。生還したのは12万人にも満たなかったといわれる。

 かろうじて生き残った兵士はタイを目指したが、敗走の道すがら息絶えた者は数知れず。亡骸で埋まった道は「白骨街道」と呼ばれた。メソートからメーホーソンにかけてのタイ北西部の国境地帯には「白骨街道」がいくつも走る。
 バンコクで、そうした「地獄の風景」を目の当たりに見た未帰還兵に会ったことがある。その人は、終戦後もずっとチェンマイ郊外に住み着き、戦友の遺骨集めを「生涯の任務」にした。自費で「白骨街道」に行っては、当時の記憶を頼りに遺骨を集めた。その数約八百体。日本政府は1977年にタイに遺骨収集団を派遣、集められた遺骨も持ち帰ったという。

 その未帰還兵は、数年前に亡くなられたが、生前「まだたくさんの戦友がジャングルに眠っている。いま遺骨は掘り出しても、風化が進み紙みたいに薄くなりもろくなった」と訴えていた。こうした状況を考えれば、今回の遺骨調査・収集は、最後の機会かもしれない。少数民族との対話に積極的なテイン・セイン政権の民主化政策がもたらした「産物」でもある。

 「ビルマの竪琴」は、フィクションだが、ビルマをはじめ激戦地だったアジアの土の中に、いまだ多くの遺骨が残されているのは事実である。米国も当時、行方不明になった米兵の遺骨調査を近く行うという。米軍は北部カチン州で参戦し、米軍機が日本軍に撃ち落とされるなどで約730人の米兵が不明だ。戦後70年近く経った。国交のない北朝鮮でも、埋葬された日本人の遺骨帰還が問題になっている。いまだに「異国の丘」に眠る遺骨。国の責任のもとで、なんとか祖国に戻したいと思う。









                                         







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