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シアヌークのいないカンボジア (2013年3月25日)

ノロドム・シアヌーク前国王

 カンボジア国民に「独立の父」と慕われたシアヌーク前国王の国葬が2月、に首都プノンペンで営まれた。激動のインドシナを見続け、米国、中国、フラン スといった大国を相手に外交手腕を発揮しながら、この国をリードしてきた。前国王がいなくなったカンボジア。これは、権力を肥大化させているフン・セン首 相の「独走体制」に対する最後の歯止め役がいなくなったことを意味する。
 シアヌーク氏は、カンボジアがフランスの保護領だった1941年に王位に就いて以 来、60年以上にわたり、この国を主導してきた。しかし、その半生は「明から暗 へ」、「暗から明へ」の変転の繰り返しだった。
1945年3月、国王は独立を宣言したが、日本の敗戦で独立は無効になるが、国王の粘り強い交渉で1953年、
フランスからの完全独立を果たした。その後、カンボジアは冷戦構造の中で翻弄される。ベトナム戦争で米軍がダナンに上陸した1965年、米国との関係を断絶し、カンボジア内におけるベトナム共産党の拠点設営を黙認した。この反米姿勢に対しロン・ノル氏が不満を抱き、また一方では、ポル・ポト派が本格的な武力闘争を開始し、左右両派の挟撃にあった。1970年、クーデターにより親米反共のロン・ノル政権が誕生。そして、ポル・ポト政権に移り、カンボジアは市民虐殺に明け暮れる暗い時代を迎えた。

 その後、ベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権が樹立された。プノンペンでの軟禁生活から解放された国王は、カンボジア復興のために立ち上がった。その国王も、年老いてから、病気療養のため北京に行くことが多くなった。1993年の新憲法でカンボジアは、立憲君主制になり、国王は国民統一の象徴となった。2004年に国王を退位。しかし、「独立の父」の権威は、国民の間で生き続けた。フン・セン首相もこれを無視できなかった。こうしたシアヌーク氏の国家運営に携わった半生をみると、その意思は一貫して「カンボジアという小国の独立を守り、生存をはかること」だったといえる。産経新聞の記者時代にシアヌーク氏と何回もインタビューしたことがある友田錫・元日本国際問題研究所所長は、それをインドシナ動乱の際の対応を例にとりながら「現実主義」ととらえた。
 友田元所長は、こう分析する。「『地理と歴史は人の手で変えることはできない』。シアヌーク氏は自伝の中でこう書いた。カンボジアは、ベトナムとタイという野心と活力に満ちた民族にはさまれるという『地理』を、また領土を双方から侵食され続けてきた『歴史』を持つ。どうすればこの地政学の宿命から逃れることができるのか。

 シアヌーク氏は、一方でベトナムに恩を売り、他方で中国に寄り添う道を選んだ。『ベトナムをライオンとすればカンボジアは子猫のようなものだ…小動物は大きな動物を友としていればそれだけ生き延びるチャンスも大きい。カンボジアという子猫はライオンの向こうに中国という竜を見つめている』。自己の生存を守るための小国の知恵だろう」(2012年10月16日・産経新聞の「評伝」から抜粋) 。「地理と歴史は人の手で変えることはできない」---というキーワードには、現実主義に立った冷静な情勢分析と外交のバランス感覚がにじみ出ている。 
 翻ってフン・セン政権。昨年の東南アジア諸国連合(ASEAN)の外相会議では、南シナ海の南沙諸島をめぐる領有権問題を巡り、ベトナム、フィリピンと対立した。議長国にもかかわらず、中国寄りの姿勢を取り続けた。巨大な中国の援助・支援の取り込みが狙いであるのは明白だった。「ベトナムに恩を売り、他方で中国に寄り添う道を選んだ」というシアヌーク路線とは違う「中国一辺倒」の感がある。
 シアヌーク氏の死去による「王室の衰退」が確実視される中で、強力な政敵も見当たらないフン・セン政権。国内的にも乱開発、人権、ポル・ポト派特別法廷の運営問題など課題が山積している。現政権にはシアヌーク時代と同様、「地理」と「歴史」を深く考察した政治姿勢が求められている。

 





                                         







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