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福田ドクトリン           (2017年5月8日)




ジャカルタで起こった「反日暴動」(1974年1月15日)
 東南アジア諸国連合(ASEAN)は、4月末、フィリピンで開いた首脳会議の
議長声明を発表した。中国が軍事化を進める南シナ海問題については「一部首脳による懸念に留意する」と記されるなど、中国に配慮した抑制的な内容となった一方で、朝鮮半島情勢については「深刻な懸念」を表明、国連安全保障理事会決議の順守を求めた。
 「ASEANとフィリピン」といえば、思い起こされるのは「福田ドクトリン」である。いまからちょうど40年前の1977年の8月、当時の福田赳夫首相は、ASEAN歴訪中に訪問先のマニラで、「日本は、軍事大国にならない、心と心の触れあう関係の構築、ASEANは対等なパートナー」という3つの外交原則を示した。
 これがマニラスピーチ、いわゆる「福田ドクトリン」である。
 同年、日本・ASEAN首脳会議を開催し、1978年には日本・ASEAN外相会議も開かれ、日本はASEANと対等の立場からの協力関係をスタートさせたわけだ。  
 この「福田ドクトリン」が打ち出されるきっかけとなったのは、1970年代初めにASEANに渦巻いた反日感情だった。1974年、田中角栄首相(当時)が、この地域を歴訪したが、バンコクでは首相一行が宿泊したホテルが反日デモ隊に包囲された。
 戦後、日本の高度成長・貿易の拡大などを目の当たりにし「かつて軍事侵攻した日本が今度は経済で進攻してきた」という反発からである。最後の訪問先のインドネシアのジャカルタでは暴動にまでに発展した。日系の代理店や事務所・日本車が焼き討ちされ、多数の死傷者を出す惨事となった。
 結局、田中首相は、滞在先の迎賓館から出ることは一度もなく、ヘリコプターで空港まで脱出した。暴動の様子は日本国内でもテレビ中継され、インドネシア国民の激しい反日感情に国民は驚いた。

 以前、「福田ドクトリン」の作成に深く関わった元外務官僚に話を聞く機会があった。「反日デモ隊に遭った田中首相にはASEAN重視の外交を展開させたい、との強い意向があった。ジャカルタ暴動の時も地元記者に『これで良い。雨降って地固まるだ』と言っていた。次の三木武夫首相もASEANへの思い入れが強く、何度も接触を図った」と指摘した。
 田中―三木―福田と持続していたエネルギー・熱意が花開いた。それが福田ドクトリンである。外交には継続性が大事、ということである。

 あれから40年。日本とASEANは,ビジネスパートナーとしても緊密な関係を築き、互いに重要な貿易相手である。日本にとって初めての経済連携協定(EPA)を締結したのもシンガポールである。ASEAN各国との間で、貿易・投資のさらなる活性化や友好関係・協力の促進が期待される。












                                         









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